日本の養蜂の歴史

昭和41年に農林省畜産局で刊行された「畜産発達史」を中心に日本の養蜂の軌跡をまとめると、おおよそ次のようになります。

(1)揺籃期

日本ではじめてミツバチのことが史上に現れたのは「日本書紀」の推古35年(627)のくだりに「夏五月、蝿有り、聚集れり、その凝り累なること十丈ばかり、虚に浮かびて以て信濃坂を越ゆ。鳴く音雷の如し。すなわち東のかた上野国に至て散りぬ」との記載があります。この頃は一般には「蜜蜂」という文字も言葉もなく、これを蝿の群れと呼ぶほか表現の方法が なかったのでしょう。

文献上で「蜜蜂」の語が初めて用いられたのは「日本書紀」の皇極2年(643)のくだりに出てくる「百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち、養う。しかれどもついに蕃息(うまわ)らず」 という記載です。百済人の余豊が奈良の三輪山で養蜂を試みたけれど、失敗に終わったという記録で、これが日本における養蜂のはじめだというのが通説になっています。

奈良時代には、はちみつは三韓などから貢物として献上されています。たとえば、天平11年(739)に対岸の渤海国から「文王致聖武天皇書」に添えて「大虫皮、羆皮各7張、豹皮6張、人参30斤、蜜3斤」とはちみつが献上されていますが、蜜3斤が豹 の皮6張 と同格に扱われるほど、貴重な物であったことがうかがえます。天平宝字4年(760)には、5大寺に使を遺わし、毎寺雑薬2櫃と、蜜缶1口とを施すとあり、貴重な薬としても使われていたようです。(と言ってしまってもよいでしょうか?)

平安時代になると、国内でも蜜を献上していた記録が見られるようになります。「延喜式」(905~927年)には、「蜜、甲斐国1升、相模国1升、信濃国1升、能登国1升5合、越後国1升5合、備中国1升、備後国2升」とあり、別の箇所には「摂津国蜂房(蜜の貯まった巣)7両、伊勢国蜂房1斤12両」を献上したと記載されています。蜂房とは、はちみつの貯まった巣のことですから、はちみつだけでなく、蜜巣まで献上されていたようです。

源氏物語の「鈴虫」の巻の冒頭には、「荷葉の方をあわせたる名香、蜜をかくしほろろげて、たき匂はしたる」とあり、当時、はちみつで香を練っていたことがわかります。平安時代の終わりごろには、「今鏡」では貴族が、「今昔物語」では庶民の間でミツバチが飼われていた様子が描かれています。鎌倉時代から中世にかけての間では、文献上に養蜂関係の記載はみられません。

(2)旧式養蜂の確立

養蜂が本格的に行われるようになったのは江戸時代からです。社会が安定し、貨幣経済が進展するにしたがい、換金できる生産品に対して関心が高まっていきました。ミツバチに関しても、生態や養蜂技術に関する本が出版されるようになってきました。
宝永5年(1708)に出版された、貝原益軒が日本で最初に体系的に編纂した生物誌である「大和本草」には、採蜜場所が異なっても、生産する野蜂、家蜂、山蜂はどれも同じミツバチであると述べられています。当時、はちみつは、伊勢、紀伊の熊野、尾張、土佐、その他諸国で産出されていましたが、同書には、「土佐より出づるを好品とす」とあります。

18世紀後半は、日本において科学的な精神がめざめた時期です。寛政3年(1791)に出版された久世敦行による名著「家畜畜養記」は、ニホンミツバチの詳細な生態や飼養技術を述べた最初の本でした。この本には、初めて王台の数と分蜂の回数に密接な関係があるなど、科学的態度による観察をもとに詳細な生態の描写が行われています。
寛政11年(1799)には、内勤蜂と外勤蜂の区別や分蜂について記載された木村孔恭による「日本山海名産図会」が出版されました。豊富な挿絵と平易な和文体で書かれた本書は、広く愛読されたようです。

動植物の分類に大きく貢献した小野蘭山が著した「本草綱目啓蒙」は、文化2年(1805 )に出版され、はちみつの産地として芸州広島の山代、石州、筑前、土州、薩州、豊後、丹波、丹後、但州、雲州、勢州、尾州を上げています。しかし、販売されるときには、すべて“熊野蜜”として売られており、当時、熊野がはちみつの最大の産地としてブランド化されていたことがうかがえます。

ニホンミツバチによる養蜂は、旧式養蜂が技術書などで広く浸透したとはいえ、生産力は貧弱なものでした。が、和歌山県有田郡道村(現在の有田市)の通称蜜市とよばれる貞市右衛門は、ニホンミツバチによる養蜂に成功し、数百群の飼養に成功し、多量の採蜜量を得ました。市右衛門は、安政年間から単年に生産量力やはちみつ・蜜蝋の相場などを「大福帳」に記録したため、当時の養蜂や市場の様子を知ることができます。記録によると、採蜜量は、当時の最高の技術を誇った市右衛門にもかかわらず、現在の1,2割程度にとどまっていました。

(3)洋バチ導入―種蜂時代

明治時代になり、新政府は各種産業部門に積極的施策を進め、養蜂もまたその一つとして取り上げられました。明治10年(1877年)1月、内藤新宿勧業寮出張所は、勧農局試験場と改称され、同年9月には、貞市右衛門の息子である市次郎が招かれ、ミツバチ係として研究に携わることになりました。12月28日には、勧農局においては、アメリカからイタリア国種のミツバチを購求し、これを新宿試験場に飼養し、内外ミツバチの得失を試験しました。おそらくこれがわが国にセイヨウミツバチを輸入した最初のものだと考えられます。市次郎は、蜜市流の養蜂の研究と指導に没頭し、蜜源植物として、茶およびソバの蒔き付けなども行って、ミツバチの集蜜活動を観察する環境をつくりました。
明治13年(1880)には、勧業寮から転出した武田昌次が、小笠原島でセイヨウミツバチの養蜂に着手し、数百郡まで繁殖に成功しました。

明治33年(1900)、岐阜県羽島郡の渡辺寛は、16歳にして養蜂に着手し、明治40年(1907)に渡辺養蜂場を創設して、養蜂の専業化を図りました。小笠原島から、イタリアン2群を、1群100円で買い入れ、さらに翌年大量に移入し、これを基本として、欧米の優良品種の輸入を開始し、増殖を図りました。明治41年(1908)には、岐阜の名和昆虫研究所の名和は、アメリカのルート商会から、イタリアン王蜂と、養蜂器 具一式を輸入し、盛んに増殖しました。

明治36年(1903)には、山梨県の青柳浩次郎が、アメリカから輸入したサイプリアンで増殖の成功に至り、箱根を拠点として、明治38年(1905)から、各種セイヨウミツバチの試養頒布を開始し、日本の種蜂改良事業が起こされました。

明治42年(1909)に、渡辺は名和と提携して(後には単独で)、雑誌 「養蜂の友」を発行しました。愛知県でも「養蜂界」や「日本養蜂雑誌」が相次いで刊行され、養蜂関連の雑誌は一時50種に及びました。大部分は種蜂の宣伝用でしたが、公の指導機関がほとんどない業界において、20数種の養蜂書とともに、重要な役割を 果たしたものも多くありました。

日露戦争後の産業勃興期に新しい産業として養蜂業が大きな注目を集めましたが、はちみつではなく、ミツバチそのものが投機の対象となり、種蜂の事業に対して以上な熱気が起こりました。しかし、この熱気は、大正時代に入ると消えていき、養蜂業は再び大きな曲がり角に差し掛かってしまいました。

(4)転地養蜂の開花

一定の場所でミツバチを飼えば、花のある間は容易かつ有利であるが、花がなくなる時期のためには、前もって貯蜜を十分にする等の配慮を必要とします。しかし、次の花へ蜂群を移動すれば、再び有利な状態繰り返すことができることから、種蜂の取引きが行き詰まった業界は、ここに活路を見出すことになりました。

渡辺寛は、大正元年(1912)に北海道で広範囲に及ぶ蜜源調査を行った結果、ほぼ無尽蔵の蜜源を確認し、「養蜂之友」に北海道での養蜂の可能性について発表しました。これに触発され、長距離転飼を行う養蜂家が増えていきました。

採蜜を目的とする比較的規模の大きな転飼は、九州では大正2年(1913)1月に兵頭文平が、宮崎から70群を山川港に移動したのが最初だとされています。以後、南北に長い国土を持つこの国に特徴的な転地養蜂が盛んになっていきました。

(5)初めての輸出

長距離転飼が軌道に乗るにつれて、日本の養蜂産業は基盤が整ってきました。大正7年(1918)に第1次世界大戦が勃発し、欧州市場における糖分欠乏のため蜜価は暴騰して、ついに日本にも輸出の需要が殺到しました。同年、ロンドンおよびリバプール港へ20万ポンドのはちみつが輸出されるとの噂が立ちましたが、当時の日本の養蜂業界は、ようやく種蜂時代を脱して、生産態勢が整った直後であったため、その生産額はきわめて微々たるもので、需要に合わせた集荷には多大の労苦がありました。

(6)戦時下および終戦直後の養蜂

昭和に入って戦時下においては、重軽金属は軍需資材としてきびしい統制下にあったので、平和産業への配給はほとんど行われませんでしたが、はちみつは甘味栄養 資源としてのみでなく、蜜蝋とともに医薬的効果が認められていました。蜜蝋は爆弾、砲弾、あるいはプロペラの滑沢、魚雷、スクリュー、光学兵器、錆止め等々、その用途は広汎にわたっていました。そのため、はちみつ容器としての製缶資材を特別に配給を受けるというようなこともありました。とはいえ、戦況が悪化するにつれ、はちみつ容器や養蜂器具、給餌用砂糖などの入手が困難になるとともに、養蜂家の招集や徴用などで、養蜂界はさまざまな困難に見舞われました。

やがて敗戦を迎えた1945年(昭和20)8月頃の食糧難では、特に甘味不足ははなはだしく、はちみつがもっぱら甘味代 用として、空前の関心を集めました。また、わずかな砂糖も統制配給下にあったため、甘くさえあれば、何でも値段にかまわず飛ぶように売れ、栄養に富むはちみつはひじょうに珍重されました。当時まだ蜂蜜は価格の統制下にありましたが、需給のアンバランスから公定価はほとんど守られず価格は上がる一方でした。

(7)戦後の養蜂

戦後の混乱が収まると、やがて迎える高度経済成長期で国土の自然は荒廃の一途をたどり、養蜂を取り巻く環境は次第に厳しさを増していきました。

そんな中、一部の国会議員の議員提案というかたちで昭和30年(1955年)「養ほう振興法」が成立し、養蜂の地位が確立されることになりました。しかし、その後も養蜂業者の苦難は続き、昭和38年(1963年)の蜂蜜輸入自由化には大打撃を受けました。

しかし、この頃から新しい局面も開けることになりました。ポリネーションの登場です。都市域の拡大・開発と、残された農地での徹底した農薬による防虫などのため、本来受粉に欠くことのできない昆虫まで減少させることになったのです。昆虫による受粉が十分に行われないため、果樹などで奇形果や小型果を生じることが多くなり、これを解決するためにミツバチの導入が少しづつ増加していきました。さらに、昭和40年(1965)年代になると、作物の経済価値を上げるためのハウス栽培が盛んになり、ハウス内での受粉作業におけるミツバチの需要が急増していきました。

昭和60年(1985)、世界の養蜂家の最大の集まりである国際養蜂会議が日本(名古屋市)で開催され、53カ国から2000名を越えるミツバチ関係者が集まり、大盛況の会となりました。

(8)養蜂の現状

昭和60年代以降は、土地の開発がより進み、自然環境が激変しました。野山では少なくなった花を求めてミツバチが農地へ行けば、農薬との接点が多くなり、影響を受けざるを得ません。その農地での耕作状態も大きく変化し、昭和45年頃に比べ、かつての主要な蜜源の栽培面積は、レンゲは約11%に、ナタネは約5%にまで激減しました。安価なはちみつの輸入が急増し、国産はちみつの価格が低迷する中、養蜂家の高齢化が進み、昭和60年には飼育戸数が9,499戸でしたが、平成17年には4,790戸まで落ち込みました。近年では、はちみつの国内流通量約41千トンのうち、国産はちみつの生産量は約2.8千トンにとどまっており、はちみつの国内自給率は7%程度です。

最近では、国産の農産物が見直されるとともに、国産はちみつの価格が上昇傾向にあることや、自然との接点が希薄になっている都市部での養蜂が注目されたことから、ミツバチへの関心が高まり、飼育戸数は増加傾向にありますが、一方で蜜源植物の植栽面積は、引き続き減少しており、蜂場の確保に関するトラブルが急増しています。

また、生食の消費量が世界一のイチゴ栽培をはじめ、メロンなどの農産物の花粉交配でのミツバチの重要性はますます増しています。今や、花を訪れることで行う受粉が農産物生産の約35%を支えており、家畜としてのミツバチの総産出額は 約3,500億円にのぼっています。このうち約98%が花粉媒介用のミツバチの働きです。

平成24年(2012)には、養蜂の環境が大きく変化したことを受けて養蜂振興法が改正され、平成25年(2013)1月1日から施行されています。大きな改正点は、蜂群の適正な管理と配置、養蜂の届け出義務対象者の拡大、蜜源植物の確保です。

新しい環境保全、生態系保全のうねりの中でミツバチの重要性は、これからも、一層増していくことになるでしょう。

 

参考資料

渡辺寛・渡辺孝著「近代養蜂」

佐々木正己著「ニホンミツバチ」海游舎

農林省畜産局「畜産発達史」